千束八幡神社(東京都大田区)
初詣第一弾。午年におすすめの馬関連神社ということで。
昨年の蛇窪神社から数駅なので近い立地、
同じようにアップダウン=丘や谷が多い印象
北千束から徒歩、住宅街は割と高級かと思います。
関東大震災で移動してきたことから住宅街になったとのこと
先に別当寺の日蓮宗妙福寺へ。都会のお寺とは思えない趣のある空間でした。
もとは草庵で昭和初期に浅草の寺が移転合併、
墓地も移転しているので雰囲気が違うのも経緯があるんですね。

妙福寺は江戸初期に建てられた浅草の寺。明暦の大火を経て明治41年(1908)に
墓地のみを堀之内(杉並区)に移転。
関東大震災で焼失、昭和2年(1927)に移転、草庵との合併の許可を受け、今日に至る。
現在ある日蓮袈裟掛けの松は三代目であると伝えられる
草庵のいわれ:日蓮が弘安5年(1282)に身延山(山梨県)から常陸国の温泉に向う途中、
老松に法衣をかけて池の水で手足を洗った。
このとき水中から七面天女が出現、身延山から日蓮の道中守護をしてきた旨を告げたという。
それを記念して、土地の人達が堂宇を立てて七面天女を安置したのが、
御松庵のはじまりであるとのこと。
また日蓮が足を洗ったことが洗足池と呼ぶようになったいわれの一つ
(ただし千束分の稲田を寺領にしたことが定説)

馬頭観世音供養塔などの文化財が竹林などの美しい景観とともに見れるのは貴重です。
天保11年(1840)に、馬の健康と冥福を祈って建てられたもの。
下部は道しるべを兼ねており、
四面に東西南北のそれぞれの方向を示す地名が示されているのも資料的価値が高いそうです

池を回り込んで列に並んでから拝殿まで1時間くらいでした。
平成28年に架け替えられた
三連太鼓橋を渡りながら列をなします
洗足池は公園と寺社が周囲に整備されていて、都会のオアシスという感じです。池にはカモメも
待つ間も池の景観や、鯉の様子が楽しめます。1月1日は穏やかだったので寒く無く良かったです
コンクリ製?の両部鳥居から石段、その前に池月伝説の説明あり。
近辺の野生馬を頼朝の部下が捕まえ、模様が池に映った月のようなので池月になったとのこと。
社伝によると、貞観二年(860)に八幡信仰の総本社「宇佐神宮」から勧請され創建。
承平五年(935)、平将門の乱が発生、乱平定のため
藤原忠方が鎮守副将軍として関東へ派遣される。
平定後、忠方は千束池(現・洗足池)の湖畔に居を構え
当社を氏神として崇敬(池上氏の祖とされる)
その後治承四年(1180)、源頼朝が逃れた安房より鎌倉へ向かう際に当地に宿営。
将兵の意気が高まり旗をあげて盛り上がったことに因み、
別名「
旗挙げ八幡」と呼ばれるようになったと伝えられている。

こちらの富士山型の手水はとても珍しいですね^^
池に定番の、市杵島神社もしっかりありました。
池月伝説はかなり全国にあるようなのですが、東北の牧が一番有力みたいですね。
まあでもここら辺は頼朝が実際に来たこともありそうですし、
何かの関係はありそうな気はします^^
本殿の左脇を少し降りたところに池月の銅像があります
名を残すことがすべてはないですが、今も伝説が残る馬ってすごいですね。
これは日本独特かもですし、アニミズムの現れなのかも
五方山熊野神社(葛飾区)
初詣第二弾。京成電鉄の特急が確か停まる「青砥」から住宅地の中を歩き10分強、
中川蛇行部(中川七曲)の立地となります
社地は元来一辺が約三十間の正五角形をなし、五行をかたどっているとされています。
ご神体は70センチある「神代の石剣」(立石の地名の由来説あり)
外からは見れないです
石の剣は、関東地方では極めて珍しいものとされています
本当に安倍晴明が勧請したという由緒正しい神社ですね。
古墳群があるので、もちろんその前からの聖地です
神社自体はパチンコや東方とコラボしたり、何でもあり神社です。
午年でロディコラボもありました
御朱印はコラボもたくさんあり800円くらいしますが、
基本のものは300円なのがいいです。紙ですが達筆な手書きでした
お守りもベーシックなものなら500円
(五角形や五芒星入りもあって安倍晴明ファンにもいい)なので、まあまあですね
巫女さんがヴァイオリン演奏をしていましたが、宮司の縁者の方なのかなと。
曲目はスピッツなど90年代JPOPの合間に、お正月曲も入っている感じ
幼稚園や自然園も運営され、神馬のポニーが3頭いてローテーションで神社に出てくるようです。1月2日は葦毛まだらのばにらちゃんでした
これは神田明神のあかりちゃんより良い環境◎
南蔵院・立石祠
隣接しているかつての別当寺である、真言宗豊山派。
お墓も隣接する、木などは少なめの都会らしいお寺です。本堂は結構立派

熊野神社の別当寺として長保年間(999-1004)に創建したと伝えられています。
この寺の裏にはかつて南蔵院裏古墳と呼ばれる6世紀後半ごろの古墳があり、
埴輪・人物埴輪首部・土師器祝部が出土しています
古墳は明治時代に破却されたそうでもったいない。
国家神道の勢力には邪魔な派閥の古墳だったのかもと思ったり
(保存されているのは奈良あたりが多いですよね)
宝暦5年(1755)将軍放鷹のとき御膳所に指定。
鎌倉-室町時代の板碑数基が保存されているとのこと。
近隣には古墳群があり、霊石として有名な「
立石」があります。ついでに行ってみました
完全に児童公園の遊具の中に祠が一応整備されていますが、カオス空間
戦中頃までに験担ぎなどのために見える部分が少しずつ削り取られていて、
今は殆ど地表に出ていません。
石のところに入ることもできるので、今もいたずらされかねない感じ。
大丈夫なのか、まあ今は監視カメラがあるか
弥生時代から古墳時代、古隅田川や古利根川など河川からの沖積によって
浮洲が点在するようになってきた関係で古墳群があるのでしょうね。
柴又八幡神社(葛飾区)
青砥から乗り換えありですが数駅で到着、古墳時代後期(6世紀後半)の円墳上に建つ神社です。
帝釈天より早い信仰の聖地。というか帝釈天は江戸初期創建の日蓮宗のお寺で、
18世紀後半に日蓮の手彫り入りの像が発見されたことから信仰を篤く集めたそうです

帝釈天の人の流れから外れ、線路を挟んだ喧騒を離れた神社となります。
自転車が多く停められていましたが、たぶん帝釈天に行く人によるものでしょう。
100円奉納でお神酒の八海山配布でした^^
大谷にあやかれると氏子のおじさん談、下町のアットホームな雰囲気も感じられます
さらに女性の氏子さんの笛の生演奏つき
創建年代は不詳ですが、古墳上に鎮座する社で、江戸時代には柴又村の鎮守社でした。
柴又は「正倉院文書」の「養老5年(721)下総国葛飾郡大島郷戸籍」に見える
「島俣里」(しままた)に比定される古地名とのことです
柴又という地名は島俣が転訛したもので、
川の合流点に土砂が堆積した土地だということが読み取れます
※戸籍には「刀良(とら)」・「佐久良(さくら)」の人物名も見えるそうで
山田洋次監督も確信犯でしょうか^^当然でしょうけど博学なんだな
御朱印はカラー印刷の「寅さん埴輪」入りがデフォルト、
寅さんの帽子っぽい=西洋風=西・中央アジア騎馬民族由来のものでは…
基本的に埴輪で割と見かける形ではありますよね
古墳風のモニュメント「島俣塚」が立派で気を取られていて、
古墳跡が公開されているのかと思ったのですがこちらは石室を移設した跡だそうです。
1965年の社殿の改築までは社殿の裏に石室の一部が露出していましたが、
改築の際に石室を社殿の下に移築、復元しています。
社務所で聞いてみたら公開は年1回というお話だったので、
機会があれば見てみたいです(2025年は11月3日)
骨片まで出ているそうなので、DNA分析したらわかることが多いかもですよね。
そして文久年間(1861-1864年)の狛犬が趣がありました。
この後ろの柵の中を見るべきだったんですね
相方と話しながらだったためか標示板も気づいてませんでした^ ^;