前回のエジプト本が先王朝メインだったので、全時代を網羅した書籍を読んでみました。
新書ではなくページ数多いので持ち運ぶにはボリュームありますが、
すべての王名の年表も載っていますし
おそらく基本的なことは押さえた内容だと思います。
最初にエジプトの土地利用(沖積地と冠水しない低位砂漠の中間に生活の基盤を置く)
初期のエジプト研究者の紹介。
先王朝時代からローマに征服され終焉するまでの通史に入ります。
前期新石器時代のナブタ・プラヤ(BC7050-6700年)はスーダンと共通する土器を持つ。
土器の利用は加熱と言うより貯蔵用。
後期(BC5400-4400年)には巨石建造物が出現するが、
エジプトの先王朝は巨石建造物を持たないので直接のつながりはないと見ている。
下エジプトの黒曜石はトルコ(アナトリア)産
古代エジプト本には必ず掲載される先王朝ナカダ文化の紹介。
土器の粘土に混ぜる混和剤の藁を「スサ」と言う。スサを混ぜたのは粗製土器=大量生産の現れ
上エジプトのナカダ文化2期(BC3650-3300年)にはミイラ処理を施した形跡が出てくる。
15歳以下の女性の殉死も始まる。
ドゥワーフ2体も出土。身体的特徴の神秘性から宮廷で高い地位が与えられた。
のちにホルス神となるハヤブサ像も出現してくる。
西アジアではBC8000年から農耕が始まるが、下エジプトはBC6000年と2000年もタイムラグ。
農耕に不向きのシナイ半島に阻まれたため、導入が遅れたものと思われる。
メリムデ文化(BC5000-4100年)家屋は地面を掘りこんだ楕円形
下エジプトは比較的平等な社会マアディ・ブト文化。
上エジプトの成熟社会ナカダ文化に統合される。
ナカダ文化は中心地をナカダ遺跡からアビドスとヒエラコンポリスに移していった。
古王国時代ジェセル王(第3王朝・BC2686-2613年)の階段ピラミッドで
ピラミッドが突如として出現、と言うわけではなく
初期王朝(BC3000-2686年)のマスタバ墓の時期から徐々に技術を高めていった結果
というのは他の書籍にもある通り。
第2王朝最後の王より前までは葬祭周壁と王墓は別に作られ、
周壁を王の死とともに意図的に破壊する慣習があった。
クフ王(第4王朝・BC2613-2494年)のピラミッドには「重力軽減の間」があるが
スピ的な意味ではなく、王の間にかかる重圧を軽減するための構造的工夫。
第5王朝(BC2494-2345年)になるとピラミッドに代わり
オベリスクを配する太陽神殿が隆盛してくる。
また最後の2人のファラオになると、
最古の宗教文書:ピラミッドテキストを玄室の壁に配するようになる。
中王国時代の第12王朝(BC1985-1773年)アメンエムハト1世は
11王朝最後の王の宰相=王族出身ではないため
ファラオとしての正当性を強く示す必要があり、首都移転とピラミッド建設を再開した。
また、中王国時代から墓地に墓を作ることができる層が行政組織の下位の人々に広がる。
第2中間期(第15王朝・BC1650-1550年)にはアジアのレヴァント系の高官が
対外交易や遠征を仕切っていた(トルコ ・ シリア ・ レバノン ・ イスラエル辺りの人々)
また紀元前3世紀に書かれた「エジプト史」でアジア系「ヒクソス」は侵略者として描かれるが、
考古学的に見るとうまく現地人と融合した移住者だったことがわかっている。
初期王朝以外の出自の人々が担う王朝もあったというところが気になっていました。
王権を持つ民族が変わっても、同じ形の信仰と王権を引き継いでいたのは
やはり注目すべきでしょうね。
もちろん領土争い自体は首とったりで凄惨なところもあると思いますが、
エジプトの人民に対しては外国の文化を強要することなく
比較的緩やかな支配だったのかなと思います。
だから長く続いたといえるかもですね。
新王国時代、第18王朝(BC1550-1295年)創始者のアハメス王の後は
ピラミッドは造られなくなり
特定の山をピラミッドに見立て、山の背後の『王家の谷』に王墓を作るようになる
第18王朝の3代目・トトメス1世(軍人上がり、王家の娘と婚姻)のあとは
女性のファラオ・ハトシェプスト。
彼女の甥のトトメス3世によってハトシェプスト側の勢力は退けられ、記録は改ざんされた。
18王朝10代目のアメンホテプ4世(改名アクエンアテン)は、
アメン神中心の多神教を、アテン唯一神の一神教に大きく改革。
アメン神官団の勢力が強くなっていることに恐れをなしたためといわれる。
しかし一神教はその代のみで、
18王朝12代目の超有名なツタンカーメンの時代は多神教に戻ったことが
インパクトのある出来事とされている。
※ツタンカーメンの正式名称はトゥト・アンク(生命)・アメン
参考にさせていただいている論者の方によるとこの時に
一神教勢力が去ったことが『出エジプト』であり、
同時期中国では殷が起こり宗教改革、その影響が日本にも表れたのが
クナト崇拝(大国主やスサノオ以前の出雲族)という説があり、たいへん興味深いですね^^
第3中間期(BC1069-656年)はヌビア:クシュのエジプト侵入があるが
エジプトの文化は破壊せず、エジプトのかつての全盛期に敬意を払って文化を採り入れていた。
末期王朝を経た後のプトレマイオス朝(BC332-30年)の王たちも、
伝統的なエジプトスタイルの神殿を建設していた。
後半はテーマに絞って掘り下げています。
【神と神殿】
九柱の神々が中心。オシリスは息子のホルスに地上の支配を任せ自分は冥界の王となる
原初の丘を模した「ベンベン石」が聖なる石とされる
一般の人は神殿に入れないので神殿近くに耳を描いたステラ(石碑か木碑)が置かれ、
願いをかけた。
【王権】ファラオは「マアト」=良きこと全て・秩序や倫理など を維持する役割を持つ
【社会】
軍隊は基本臣民だが外国人傭兵も存在
ギリシャ・ローマ時代になって貨幣が登場するまでバーター(物々交換)だった
【ピラミッド】
前回の本にはなかった労働者についても少し触れられていました。
食糧は十分で怪我の治療を受けるなど待遇は悪くない。
パートタイムの労働者が多く、通年で働くのは監督官や熟練の工人
農閑期の副業としてピラミッド制作に携わったという見方が研究者には多いが
ピラミッドを作ったのは公共事業と言うよりファラオへの忠誠心あってこそと筆者は見ている
日本における古墳制作の研究にも通じますね。
【都市】
新王国時時代のメンフィスはアジア遠征の拠点・西アジア系の外国人も多く国際色豊かだった
聖船を神輿のように担ぐ『オペトの大祭』は、現代のイスラムの祭にも名残があるそう。
【文字】
絵文字の『ヒエログリフ』が代表だが文字は4種類ある。
『ヒエラティック』は神官が書くヒエログリフの筆記体
『デモティック』はそれをさらに簡略化した民衆文字
『コプト』はキリスト教と共にギリシア文字ベースのアルファベットを採り入れたもの
ロゼッタストーンはヒエログリフとその対訳が書かれているので
文字解明につながる発見だった。
メソポタミアの楔形文字(音節文字:日本のかななど)とは構造が違う。
ヒエログリフは音素文字(アルファベットなど)になるので輸入ではないと見ている。
【ワイン】
最古のワインは西アジア(BC6000年紀)・その技術を輸入
エジプトは暑すぎ、水はけ悪い、農地が肥沃すぎるので本来はブドウ栽培には向かないが
手間をかけた灌漑設備で作られていた。すなわち高級品。
より高級な物として白ワインもあった
【パン】
ミネラル豊富だがとても硬かったよう。
麦の性質上脱穀後、コメのように搗いただけできれいに皮が取れて
粒のまま調理できるわけではない。
皮が硬く胚乳が柔らかいため粉として利用することになる
石臼の製粉時に細かい石も含まれてしまい、当時の人骨の歯はすり減っている。
【ビール】
醸造法の研究の試行錯誤が論文的に紹介されていました。
基本的にはパンと同じ材料:麦とパン酵母で作ることは意外と知らなかったです。
腐らないための鍵がサワードゥという材料。
今はドイツやイギリスあたりがビールの本場面をしてますが、エジプトが元祖なんですね。
【死生観とミイラ】
カー(生命力)とバー(個性)が魂。
明言をあえて避けていると思われますが、どう見てもこれはキリスト教の元ネタですよね。
遺体をミイラとして保存して最後の審判を受けるという。
審判のところはエンマ大王と似ているという記述がありますが、
それどころではなく死生観はまんまキリスト教では?アメン神=アーメンなのだろうし。
とはいえ一神教と多神教の違いはありますね。
ここが先述の『出エジプト』につながるということか。
ミイラ作りに樹脂の没薬を大量に使ったが、それが劣化して黒く見えた様子を
ビチュメン(瀝青)と勘違いしたヨーロッパ人。当時入手困難な材料だったため
十字軍以降以降、薬にするためにミイラを盗み破壊したという話は
ある意味さすがだなと思いました。
異教徒への敬意がないんですね。
現代においても「十戒の」映画、エジプトの神は虚構だけど
キリスト教の神はその時期にできる特撮を駆使して
「本物」に見えるように映像化してますから。
まあ人のことを言うばかりではなく、
戦時中の日本軍の残虐行為も似ているところがあると思うので胸にとどめておきたいところ。
それはともかく没薬は「ミルラ」ともいい、それが日本におけるミイラの語源だそうです。