網野善彦さんの名著、実は大学の時網野さんの講義を受けており、
その際教材として買ったものです。
そのためアンダーラインやマーカーだらけです。
大学時代は歴史をまだ暗記の対象としてみていたのが自分的に残念なのですが
ここが重要と教授が仰っていた点が再確認できるのはいいですね^^
(網野さんは既に鬼籍に入っていらっしゃいますし)
網野さんは宮崎監督の『もののけ姫』の中世観に大きな影響を与えているんですよね。
そのことすら最近知りました。何やってたんだろうなあと思いつつ
これこそ学びなおしですね。
ここ数年古代考古学中心に学び直しをしている中で改めて見てみると、
本当に鋭い指摘をされている記載が多くあり新鮮でした。
フォッサマグナを境とした東西文化差は旧石器時代から形成、
東はシベリア・西は朝鮮の影響を受ける
縄文時代への移行期、日本海形成で冬季日本海側の大量降雪が始まり、
日本海側と太平洋側の文化差も生まれた
瀬戸内海が形成されたのは8000年前
外洋航海も可能な丸木舟が福井県のユリ遺跡から出ている、
日本の文化を閉鎖された「島国」のものと考えるのは誤り
一方ネコ科猛獣がいないのは海に囲まれているためであり、
動物への恐怖心の薄さが独特ともいえる
福井県の鳥浜遺跡から日本原産ではないヒョウタンを栽培していた痕跡が見つかっている
胞衣や死産した幼児を甕に入れて戸口の下に埋めるという近年まで生き続けた習俗も
この頃からの物
縄文時代晩期は東部の土器は亀ヶ岡式のように複雑化するが、
西部は突帯文のみの浅鉢・深鉢に単純化
これも交流している地域の違いによるもの
亀ヶ岡式の地域では漆を塗った強靭な弓が現れ、
鎌倉時代まで形式の変化はなく用いられたとも
北九州の弥生文化はBC2世紀のうちには伊勢湾沿岸と丹後半島を結ぶ線まで広がる
BC1-AD1世紀には稲作は列島東部にまで広がる
方形周溝墓の首長たちはまだ世襲されていなかったとみられる
2世紀の後半倭国が乱れ、戦乱が続いたとされる
☆古墳について「前方後円墳に限る」と日本独自の形と限定した言い方をしている、
古墳自体は外来の影響と思われるということですね
5世紀にはいると近畿の大首長の本拠が河内地域となり、巨大な前方後円墳が築造される
「大山古墳」は世界最大の墳墓と言われている
倭の五王たち以外も首長は独自の朝鮮・中国また日本海経由の外交ルートを持っていた
5世紀末から6世紀初め、葛城・平群氏の代わりに大伴・物部氏の台頭
そのころ文字が駆使され「旧辞」が作られ始めたと見る
☆はじめてと言っているが、いろいろな説はあるでしょうね
奴隷がこのころ増えてくる、平民はスカート型、
支配層は乗馬に適したズボン型の衣服を着ている
罪によっておこる災いは天災や身体障害など自然と社会の均衡を崩す穢れとされた
☆縄文時代は身体障害を大切に扱ったという資料もありますが
(また旧石器東アジア人類が渡った南米には「ワカ」と言って特別な存在とする慣習が)
古墳時代位になると騎馬民族系由来の壮健男子を持ち上げる価値観が
浸透してきていることもあるかも
北陸・佐渡には玉造の集団があり近畿の大王や首長たちと取引していた
新羅が朝鮮の最大勢力になるが、倭国に対しては「任那の調」という貢納物を送り融和を図った
ついに603年「憲法十七条」翌年「冠位十二階」が作られる
世襲ではなく才能や功績に応じて個人に与えるものとされた、
大王の命に臣下は従うという儒教思想を採り入れる
620年頃厩戸皇子たちは「天皇記・国記」の編纂を計画していた
中国では隋から唐に代わり、留学生に影響を与え大化のクーデターの引き金ともなる
在地の首長たちは「国造り」と呼ばれいまだ権威を持っていた。
そこに中央から派遣される「国司」は依存しがち
646年改新の詔、部民と屯倉(人民と土地)を国家のものとし、
首長たちは官僚として中央のコントロールを目指すべく、薄葬令が出された
阿倍比羅夫を東北に派遣、ツングースの粛慎(みしはせ)まで渡る
当時の日本は北東アジアまで目を向けていた
663年白村江で敗戦、首長たちの動揺を落ち着かせるため
首長たちの支配下にある人民「民部・家部」を公認した
朝鮮海峡を新羅と倭国の国境と見る意識がここで生まれ始めた
670年大海人皇子は庚午年籍を作成目指すが、
戸籍に姓名を記されることへのマジカルな反発から不徹底に終わった
「壬申の乱」で大海が動員した東国が初めて大王の支配下となる、673年天武天皇即位
王女の一人を斎王として伊勢に派遣、天皇家の氏神が天照大神と定まったのは
これ以後と言われている
681年ごろから「古事記・日本書紀」の編纂を始める・
大王の権威は神々の時代から約束されたものという話を創る
☆「ホツマツタヱ」の記述にある通り、本当に天照大神が男性で
弥生時代の人だとしたらそうとも限らないですね
天武死後、太后鵜野讃良が浄御原令施行、国号「日本」・大王に代わり
「天皇」「皇后」「皇太子」が定められた
690年持統天皇即位・694年藤原京に遷る
日本国は古代帝国的に人民に対する厳しい支配を貫こうとするが、
租税を治められず奴隷に身を落とすものが多く既に矛盾が出てくる
初めての元号「大宝」・大宝律令も施行
遣唐使は女帝・則天武后に対し「倭国」を改め「日本国」の使いと名乗る
女性や地方の郡司・郷長にまで意欲的に浸透していったのは
秋田城から木簡が出ていることからも推し量れる
首長たちの持っていた山野河海への天皇による支配を体現するため、
天皇は官人となった首長から平民に至るまで氏名と姓を与える役割を持ち、
自らは氏名と姓を持たないことになった・呪術的な神聖王としての性格を残す
中国の皇帝との差異はここに見られる
今までの水上交通を無視するべく計画的な直線道路「駅路」を作ろうとする
奴隷は人口の10%ほど、通常の奴隷と別に陵戸と言う天皇の墓の守り人、
隼人などを畿内に移住させ呪術や芸能を担わせた
平民・賤民を問わず6年ごとに作られる戸籍に実名と氏名・姓とともに登録
律令は田地を基本として儒教の農本主義に倣っていたが、
このころはまだ水田開発はあまり進んでいなかった
種籾を貸し出して利稲を返済させる公出挙だけでなく民間の私出挙もあり、金融の原形であった
国家が海民、山民、芸能民ら職能民を育成・組織したのが品部・雑戸
郡司は首長・豪族の性格を強く持ち、国司は郡司の人民支配を踏まえる必要あり
あくまでまだ国家としては畿内中心の物であったと言える
村落もまだ境界が明確ではなく流動的
桑漆帳で本数を把握しようとするほど各地域で養蚕と漆器が盛んだった、
女性は養蚕・布の生産に多く携わり、水田だけで測れない流動的な産業も多かった
三世一身法は、土着豪族や開墾者の権利をある程度認めるものであり
律令の方針の修正ではあった
724年聖武天皇即位、727年渤海から初めて使者が来朝
長屋王の変を経て不比等の4人の子を中心とする体制に
733年聖武天皇は朱雀門で男女の歌垣開催
740年の藤原広嗣の乱による動揺を抑えるため
741年光明皇后の懇願により国分寺建立の詔
743年墾田永年私財法は地方豪族の力に頼る政策。
行基の仏教勢力も大きく大仏建立の事業に携わる
藤原仲麻呂は減税で民意をとらえつつ班田の立て直しに努め、「恵美押勝」の姓名を与えられる
孝謙女帝の復帰で称徳天皇(その時の廃帝は明治に淳仁の号を与えられた)
河内の土豪出身といわれる道鏡とタッグを組む
怨霊を恐れる人々に対して「日本霊異記」で仏の功徳と結びつけて不況に勤めたり、
官人や僧侶を通じて中国風の文化が浸透はしているものの
平民の生活そのものに根差した習俗は根強く生き続け、
支配者自身にも影響を与え観音を水の神、蛇・龍の化身と見る見方も
共同体をこえて人々は市庭に集まり物々交換で交易を盛んに行い、
神を喜ばせる芸能も行われた。
世俗の夫婦・親子の縁が切れる場として「歌垣」という自由な性交渉も
9世紀には官道は荒廃、自然の道が改めて表に現れてきて水上交通も大きな役割を再開
桓武天皇は748年山背の国長岡京へ遷都。藤原氏南家との勢力争いの中、
桓武の母と血筋を同じくする朝鮮半島系の人が多かった山背(山城に改名)
の国に力を借りるため
東北の「征討」にも力を入れる。「軍事と造作」が新王朝の創始者としての2大課題
平民出身の軍は弱体化し、鹿島社の「神賤」をいう平民より武勇に優れる勢力に頼り、
武器も富豪の財力に依存する羽目に
791年坂上田村麻呂は征夷副使に、平民軍団廃止、郡司などの子弟から選ばれた健児を置く
814年嵯峨天皇・50に及ぶ子女がおり正式の地位か上流階級出身の母を持つものを除き、
源の朝臣の姓を持つ臣籍に降した
唐風文化を強化し、空海もこのころ漢詩人の一人としてはじめは宮廷に迎えられる
最澄は大乗仏教を説くが実現を見ることなく死去、
嵯峨天皇はその遺志を汲み天台宗を自立した教団として、比叡山延暦寺設立を認める
一方天台・真言は女性の公式の授戒を認めていないので女性は国家公認の僧侶になれなかった
清和天皇・866年応天門の変で伴氏が政治の中枢から失脚
真言宗の東寺と高野山の派閥争いが起こるなどで、
天皇や貴族に取り入り優位になるため現世的な利益を得る加持祈祷に力を入れるように
宇多天皇887年・藤原基経に「関白」(あずかりしらす)権限を与える詔を発する。
太政大臣の職務として「関白」があり、天皇の代替わりの詔で定められる先例が固まった
トップは海の向こうの乱が国内に波及することを恐れて「孤立主義」に傾斜していく
しかし極めて旧い時代からの大陸・半島との交流は、商人の間ではむしろ活発になっていた
東国の騎馬武装集団の動き活発化。9世紀後半、
軍事力として各地に移住されていた東北人「俘囚」の反乱が関東で起こる
東国の製鉄は西国とは違うルートで伝来した方法と発掘でわかってきた。
鉄と馬を基盤とする強力な武装集団が育っていた
9世紀に入って庶民の葬送の地は京都の外の賀茂川と桂川の河原に限定、
悲田院に収容されている人に葬送と穢れの清めを行う役割を担わせ、職能となっていった
男性の貴族の公的文書は漢字だったが、僧侶や宮廷の女性によりかな文字が2種誕生する。
3種の文字を組み合わせ7通りの表現ができ、思想の表現の幅が広がったと言える