
よく拝見させていただいている論者さんのおすすめの本ということで。
7世紀から10世紀まで西突厥の分家から発展し、
一時は東欧の北を広く支配したという騎馬民族国家
ロシアの先行国家になるので、ロシアの昔話に騎馬武者=ハザール人とみられる:が登場する
キエフ国家にハザールが征服される戦いの記憶があらわれたもの
西からやってきた船の軍に馬が敗れた最初の戦いともされ、
近代の西の船軍の東や南の民からの搾取の予兆ともいえる
モンゴル帝国から出たモスクワ公国のイワン雷帝が16世紀に領土拡張→帝政ロシアとなった
短期間の成長はチンギス・ハンの精神を引き継ぐから、と外国からは見られるが
ロシア人からするとキエフ国家の精神を引き継ぐから、とのこと
イスラムが中央アジアで布教したのはハザールに北進を阻まれたためであり、
現在のウイグル成立にまで影響を与えている
ユダヤ教国家というが、実際は政治的理由で指導者のみ改宗したので民衆の宗教は多様だった
ベースはあくまで自然崇拝、祭祀王のカガンと実権を握る将軍のベク の二重王権
ベクが台頭する前は、カガンの弟がつとめるシャドが実権を握っていた
天皇→関白や将軍→執権・老中のように段々下位の者が実権を握る構造になると、
責任の所在が不明瞭になりだれも責任を取らなくなる
これは今の日本の惨状にドンピシャな状態。
ハザールのもとになる突厥は西と東の勢力が経済基盤の違いから分裂の危機をはらんでいた
東突厥は唐軍の攻撃で630年滅亡(これにハザールも一枚かんでいる)、西突厥がハザール勢力を支配
唐が突厥の最有力勢力と見ていたのはアシナ家
一方唐も突厥対策で突厥内の兄弟の勢力分離を図る
(1)トンヤブグ可汗の弟の系統(2)バガ・シャドを対立させ、弟に肩入れした
その系統(2)トンガ・シャドは「十箭制」を実行:
シャド権威の象徴箭(矢)を持たせた子飼いのシャドを派遣、
土着の指導に代わって支配、大カガンに権力を集中させる
やがて更に西突厥が分裂、西は(1)ヨクク・シャド(2)東はトンガ・シャドの支配するところに
(1)の系統は分断、北カフカス・タゲスタン地方に残留した勢力は付近の大勢力ハザール族に頼ることに
ハザールと言う国は650年前後に発足した 実際は西突厥の勢力の力が大きかったのだが
ビザンツなど西方の人には単にハザール勢力の強大化として解釈され、後世に記録が残ったようだ
アルメニア資料では西突厥の食事風景が詳しく書かれいてる。肉鍋を車座で囲み、小鉢のたれにつけて食べる
同時期のペルシアでは給仕が控え食事の上げ下げをするのに比べ粗野に見えたらしい
突厥の鍋料理は日本の水炊きやしゃぶしゃぶを囲む風景と似ている
また、西遊記の玄奘はハザールと時期を同じくする実在の人物であることを初めて知りました
(世界史でやったかもですが憶えていなかった)
627年にインドへ旅立ったとされる。翌628年から中国史上最も名高い「貞観の治」開始の年となる
西突厥は東面小カガンを置きもと東突厥へのにらみを利かせ、西面小カガンでビザンツやペルシア対策をしていた
道の安全が保証されるには通り道の支配者である西突厥のカガンの庇護たる通行証が必要なので
(1)トンヤブグ可汗の拠点に滞在することとなる
『法師伝』に(1)ヨクク・シャドが義理の母と密通し父を殺しシャドに就任するという顛末が書かれているが
この部分は法師が滞在中に目にするには無理があり、挿入されたと思われる
ハザールの信仰のひとつに注目、強敵の死体を大甕に入れて保存。
魔力が宿り雨を呼び日を照らし勝利をもたらすとされたとのこと
先祖の墓を水源につくり、豊かな恵みを期待するという信仰が日本にもあるようですね。
イスラエル主教によるハザールの最初の首都・バラチャンの信仰についての記述
テングリハンを深く信仰(自然を支配する力を持つ勇壮無比の巨人)・
雷神クアル・日・月・火・水も尊び道の神もいる
ロシア南西部ドン地方にはハザールの上層突厥系の「古墳」がたくさん残されている
ビザンツ製の金貨が副葬品に多く年代の特定がしやすいとのこと、突厥(ルーン)文字が刻まれているものも
このような方溝墳を7世紀後半から9世紀初期まで連綿と作り続けるが、急に制作の痕跡が消える
ハザール自体はその後1世紀ほど存続しているので謎
突厥と日本の共通点のひとつとして巻狩がある。
ビザンツともアラブとも婚姻関係で協定を結ぶこともあった
732年レオン3世は息子コンスタンティノス5世をハザールカガンの娘チチャクと結婚させる など
当時(完全に現在もですよ!)戦争は産業、軍隊は雇用創出機関であった
捕虜は商品や身代金要求として用いられるがお荷物でもありしばしば虐殺された
730年代後半カガンはアラブとの戦いで大敗し、イスラム教に入信させられる
これでいったん両者の戦いは収まり763年まで衝突はなくなる
750年アラブと中国の天下分け目・タラスの戦い:中央アジアがイスラム圏に組み込まれ
18世紀の清朝の進出まで支配が続く
752年第2イスラム王朝:アッバース家に追われた
第1イスラム王朝:ウマイヤ朝の要人はハザールに亡命、その後イベリア半島まで逃れ
コルドバで(イスパニア)ウマイヤ朝を創始・
東ヨーロッパ東端のイティルに残った者もいてネットワークができたとのこと
8世紀クリミアにあるゴート人が建てたゴーティアはキリスト教、
ハザールの支配を受けていたが宗教は自由で、行政の監視と税収の一部の上納でOKであった
758年ヨアンが担ぎ上げられ蜂起が起きるが
住民はビザンツの強圧的な支配よりハザールの緩い支配を選んだとのこと
キリスト教の勢力を脅威に感じたハザール支配層は自然神信仰から脱した方が政治的に良いと判断する
もちろんビザンツのキリスト教はだめだし
アラブのイスラム教は無理やり入信させられた過去があり属領化される、
というわけでどちらにも属さないユダヤ教を選んだ これは一般的に言われているとのこと
「ケンブリッジ文書」では偶像崇拝者の迫害でハザールに逃れたユダヤ人の影響で
ユダヤ教が普及したことに危機を感じたビザンツとアラブが使節を送り、3宗教が拮抗するが、
モーセの書を見てユダヤが選ばれたとある
ただしユダヤ教は「選ばれた民族」であることが大前提・
一応改宗もできるが広く開かれている宗教ではないというのが弱点。
後世のキエフ国家やロシアで伝承があまり行われなかったのはユダヤ教国であることで忌避されたからとも
ユダヤ人は各地に散りネットワークを作り、多様な言語を使いこなしヨーロッパアジア貿易の担い手となる
ビザンツのユダヤ人居留地で定期的に迫害されるたびにハザールに逃れてきたと言う経緯がある
シャド勢力のベク(将軍)勢力への勝利。初代ベクはオバディア、
このタイミングでユダヤ教の国教化が行われた
カガンの勢力も日本における鎌倉時代の朝廷のように健在、強力な味方がマジャールであり、
マジャールの指導部族はシャドの領地に在住した突厥系:
カバル(陰謀論でネタにされるやつ来ました)である。
カガンの就任の際は馬の上で近臣により首を絞められ気絶寸前の状態で在位年数をこたえる儀式があった
武勇・沈着などの資質だけでなく神が乗り移るという聖的権威を見せる必要があった
在位年数40年を過ぎる、もしくは大災厄が起こるとカガンを殺し、次のカガンに替えたというのが驚きです。
これは上に立つ者の本来あるべき心構えだと思いますけどね。
国が不利益をこうむったら自分の命で責任を取るこのくらいの覚悟でいてほしい。
日本の新天皇の即位後の大嘗祭でも一旦寝て起きるという生まれ変わりの儀式をしますが、かなり緩くなってますね。
マッカーサーは間接統治のために天皇を人間宣言させることでアメリカの力を示したとも。
ルシ・カガンという、ヴァイキングがカガンの血統を取り込んだ系統がある。
ベクに敗れたカガン側の勢力がバリャギ王の保護を受け娘たちと結婚したことによる。
他のヴァイキング首領たちより優位に立つ効果があった
ルシ(ゲルマン諸語で「漕ぐ」「櫂」と言う意味)は今のRUSSIA・ロシアの元ネタですね。
ハザールの押さえる河川システムとのぶつかり合いが起きた。
ルシ王は従士団を抱えていた。少年時に集められ訓練、保護者ルシと生死を共にする忠誠心を持つ
血縁・地縁を基本とする古代社会にない集団駆動原理で古代社会を切り崩したと言える
バリャギは数に勝るスラブ人に同化
また、ブルガリアの国名の元ネタがハザールと同じくトルコ系のブルガル人と言うのは面白いですね。
同じく土着のスラブ人を征服したがやがて同化したとのこと
マジャールはペチェネグと争い、モラビア(パンノニア)に定住。
ルシの攻撃に備え、新カガン・ベク政権はマジャール(カバルを指導部族として)
をドン地方に移住させる。サルケル城が拠点
ペチェネグの相続は面白い 跡を継ぐのは妻の兄弟:いとこ にすることで
一家族が突出して部族の実権を握ることを避けていたとのこと
元弓月(カンガル)からやってきたとも言われている
ペチェネグには敵のどくろを盃にして敵の強さをもらうという慣習もあった
カガン側のマジャールがビザンツ側へ、ベク側のペチェネグがブルガリアを援助して
ビザンツ・ブルガリア戦争が勃発すると、ハザールの内戦にも影響が出る
地域としてはバルト海・北海→キエフを通ってクリミア半島アゾフ海・黒海へ出
る→もしくはドネプル川とドン川の距離が近いところを一部陸を通してドン川→カ
スピ海へのルート
東西を結ぶシルクロードと南北を結ぶファー(毛皮)ロードの交差点を押さえていた
通商の民である。商人はユダヤ人が得意とするものであるので混同された
また大河を押さえることで通行税をとり、代わりに安全を保障。
一方で肥沃な平原で農耕を行っているスラブ人からも税を取っていた。
次第に重くなる税は反発を招いていく
最後は実話と神話と混同して、カガンをルシとの戦闘の表舞台に出して
威光で乗り切ろうとするが(ロシア側の記録『原初年代記』965年のページにある)
あっさり首を取られて終わり。日本のカミカゼ・竹槍と似ていますね。
残党はクリミア半島・アゾフ海沿岸・トロトムカニ辺りに政治勢力を残した しかし12世紀には欧州の民族に吸収される感じ
主食はコメと魚だった。
本書はあくまで文献史学がベースなので
考古学や習俗についての描写はあまり多くありません。
詳しいものがあるかはわかりませんが他の文献を合わせるといいのかも知れません。
ハザールには前方後方墳の元ネタがあると聞きますね。
二重王権というベースが日本と共通しているのは偶然ではない。
上古代の大陸からの渡来人の影響で日本で二重王権が誕生した。
日本の成り立ちに欠かせない古代国家の歴史を知ることはとても重要ですね。