北区再発見!学芸員リレー講座 第2弾 弥生時代の北区
2月に受講した古墳時代の講座がよかったので、弥生時代も聴講してきました。
区外の人にもオープンなのがありがたいです。縄文時代はスケジュールが合わず残念。
今回も分かりやすい講義で、やはり飛鳥山はレベルが高いです。
北区についてやけに詳しくなりそうですが、
都内のほかの遺跡との共通性や関わりもあると思いますので^^
(1)弥生時代の概要
灌漑稲作・環濠集落・集団間の争い・金属器(青銅器と鉄器)
社内的階層の顕在化・政治的社会への傾斜が特徴。
現在の主流はBC900年ごろが開始時期。
(2)北区の弥生遺跡
前期の遺跡はなく中期から出現。
①飛鳥山遺跡
環濠の上幅4-5M
②亀山遺跡
環濠幅1.5M
③荒川区・道灌山遺跡(北区・田端不動坂遺跡)
環濠幅1.5M
方形周溝墓の溝の深さについて注目したのは初めてでした。
V字に掘ることで登りにくくなる効果もあるんですね。
北区のものは大きくて飛鳥山遺跡の深さ1.8メートル。これなら防護になる大きさだが、
それより小さく飛び越えられるサイズのものもある。
名古屋以西の環濠より東日本は全体的に規模が小さいため、
防護のためという意味合いは比較的薄いかも知れない。
ムラの団結を高めるためだったかも。
(愛知の朝日遺跡は茨や杭で防護を固めている)
弥生時代後期になると環濠が衰退してくる。
①赤羽台遺跡・御殿前遺跡
集落が大きくなったため、環濠を掘るのがたいへんになったからでは。
②台地上に広がる大集落の西ヶ原遺跡群
都内の代表的弥生集落の一つ。(旧石器から近世までの複合遺跡でもある)
群内の七社神社裏遺跡の超大型建物跡(一辺14M・通常は4M程度)は特筆に値。
田端西台通遺跡の方形周溝墓の副葬品も北区の特徴が出ている。
鉄剣は日本国内上位の長さ52センチ
(一位は鳥取60センチ。あと山梨・長野・福井・埼玉あたりに次ぐ)
数も3点で多い。西日本より東日本のほうが造りが長い傾向がある。
しかし長いということは実用性には欠ける。ということで、
鉄器を武器としてそれほど用いていなかった可能性もあり。
鉄釧も2点と多い。
青銅器はあまり出ないが、多孔同鏃は特徴的。濃尾平野との交易によるものと思われる。
銅鐸文化は天竜川を越えず、東日本では小銅鐸となる。
(3)弥生式土器の名称に北区の遺跡が関わっている件
1884年:向ヶ丘弥生町(文京区)で
縄文土器とは形式が違う土器第1号の発見。
1893年ごろ:西ヶ原農事試験場構内出土の3個の土器の形式が同じで、
ここで「弥生式土器」の名称が初めて使われたと思われる
1896年:道灌山遺跡(田端西台通遺跡を指す)で、
「弥生式土器」の名称が活字文書に登場。
3個の土器の時点で「弥生式土器」の名称が
使われたことがスルーされがちだけど、
ここをポイントとしたいと熱弁されていました。
研究者さんらしいですね^^
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鹿嶋市・宮中野古墳群の時代の常陸南部
古墳の外観や発掘の写真資料を豊富に、足早に説明されていました。
通常の予算100万では木の伐採までできず、地元の協力があると助かるとのこと
鹿嶋は埴輪はそんなに出ていないので貴重。基本は副葬品で年代を判断する。
潮来市の浅間塚古墳は、4C第4四半期以前の前方後円墳の可能性
:前方後円墳から地域の古墳の出現が始まる可能性あり
小美玉市南部 6C第2四半期
5基の大型前方後円墳が25年以内に築造:複数の系譜の首長たちが墓域を共有していた
6条突帯の円筒埴輪も関東地方では異例
因みにこの時期は継体天皇。横穴石室を普及、大きさでランク付けを始めた。
気候変動のためと言う説もあるが継体天皇の影響では。
霞ヶ浦北西岸地域
舟塚山古墳は東国第2位の大きさ。5C初頭
この時期は周辺に前方後円墳はなく、遠慮したか舟塚山の被葬者が共立された王か。
その体制が終わったためか、5C末から6C初頭に
府中愛宕山古墳など同規模の前方後円墳が5基築かれた
立花郷の三昧塚古墳は2021年に出土品が重文に指定され、修復に補助が出ている。
3重の埴輪列があり、この地域での初人物埴輪。
鎧は明大博物館にある(博物館で見て立派だと思いました)
大日塚古墳 6C第3四半期 横穴式石室導入
江戸時代に大日如来に魔改造されていたが埴輪は豊富。
ほぼ完全形の家形埴輪がある(鰹木8本に、屋根がミツウロコ的三角模様)
霞ヶ浦北岸・7Cは終末期。
茨城廃寺は7C末に地元豪族が創建した。
風返稲荷山古墳 埋葬施設が2,3番目まであるが
配偶者ではなく家督相続しなかった男女の兄弟と思われる
配偶者は亡くなったら実家に戻るそう
常陸南部の終末期
土浦市の高崎山2号墳は北部九州系の横穴式石室を持つ
まとめとしては
横穴式石室は6C前半全国に広まるが、箱型石棺が主流として7Cまで残る
近畿で前方後円墳が廃れても築造継続
くびれ部分や前端、墳丘裾に埋葬施設を設けるのは異例
7Cには鹿島神宮ができ中央との交流も密になるが独自性を保つのはなぜか?
というところだそうです。
個人的な見解を述べますと
鹿島神宮は『ホツマ』によると縄文時代からありますので、
神宮が整備されてもさほど大きいことではなかったのかも。
つくばに宮を置いたイザナギ・イサナミ様、石岡には曾孫のニニキネ様のニハリ宮。
そして日嗣の君に仕えたタケミカヅチ様は鹿島・
タケミカヅチ様の父ヲバシリ様は息栖・フツヌシ様は香取宮の主ですね。
ニニキネ様の兄ホノアカリ様は奈良纏向に「天孫降臨」、
ニニキネ様も富士に拠点を移し2番目の「天孫降臨」を行います。
日嗣の君の拠点が関西に移っても、常陸の国=日立の国の人々は、
縄文晩期の国づくりが行われた誇りをもって
いたのかもしれませんね。