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お茶のこ彩々別館・古代史・神社のお話

日本の古代史(主に縄文~古墳時代。上古代の重要文献『ホツマツタヱ』)勉強中の一般人が、勉強で感じたことや神社を参拝した際の感想などを載せていこうと思います

2022年5月:富士吉田・本栖湖・富士宮・身延旅行記

今回は富士山の本栖湖まで足を延ばすことになりました。


であれば、駿河国一宮の富士本宮浅間神社に行ってみたいということで、
中央道で富士吉田から本栖湖、そこから富士宮に下り、
身延山を通りつつまた上がって中央道に戻るルートになりました。


北口本宮浅間神社


境内を出て裏の道路を徒歩にて数分南に行ったところにある大塚丘で、
ヤマトタケルが富士山を遥拝したのが始まりです。


並木の整備された長い参道にずっと並んでいる灯篭が目を引きます。
住吉大社の時に知りましたが、このような灯篭は江戸時代に寄進されたものと思われますね。




大塚丘の上に祠があります。前回記事の鳩森八幡にもあるような、
江戸時代盛んに作られた富士塚のもとになっているのでは。

塚の周りは樹木が生い茂っています。現在の植生だと富士山は全く見えませんが、
ヤマトタケルの時代、AD100年前後には付近は大きな木がなかったのだろうと思われます。
(ご神木も樹齢千年ですしね)

富士山の活動は縄文時代とても活発で、八ヶ岳より低かったものが成長、
BC900年ごろに古富士岳というツインピークだった富士山が山体崩壊を起こして、
ほぼ今の形になった事実
が解明されています。
そのようすを縄文の人々は目の当たりにしてきて、古い神々を生み出したといいますね。



そして今は豊かな森の中にある、いい雰囲気の神社です。
祠の中の、立砂状に整えられた盛塩が印象的です。





こちらの神社は、まず鳥居のみが創建されたとのこと。
木造最大級の両部造・
富士山大鳥居があります。
両部は神仏習合時代の名残ですね、別当寺は臨済宗だったそうです。

門の右大臣・左大臣もかなり趣を感じます。






両大臣の元ネタはホツマによると、初代日嗣の君アマテル様の
右大臣タケミカツチ(剣の臣)左大臣フツヌシ(鏡の臣)ということですよね。

そして本殿の前、左に杉・右に夫婦牧が勇壮に立っています。いずれも樹齢千年とのこと。
本殿も奥まで明るく見えるようになっていていい雰囲気です。





御朱印は山を模した字体と、富士宮本宮と似た二種類の字体があるようです。
もちろん300円で手書きであれば十分ありがたいですが^^

参拝中少し晴れ間もあり。境内西側に、摂社末社がたくさん並んでいます。
変わった神様が結構いらっしゃいますが、
中でも近世の4名の国学者を祀ってあるのがとても珍しいですね。



倭四柱社といい、荷田春満・賀茂真淵・本居宣長・平田篤胤もいらっしゃいます。






ちなみに国学者の中でも神代文字肯定派否定派があり、
4名のうち最も後の時代に活躍した平田のみ、肯定派です(荷田は不明)

平田神道』は死後の世界を古神道と当時の最新科学も交えて解釈し、
国家神道のベースとなったといわれるもの。
しかし明治維新の頃はすでにご本人は亡く弟子の時代でした。
そしてその弟子も国家神道とは相いれなかった模様ですね。

平田が目指した神道の形とは全く違った利用をされ、
軍国主義に悪用されたといえるんでしょう。
そしてここでその平田篤胤を祀っている意味とは…
北口本宮は平田の思想に寄り添っているということなのでしょうか。

あと変わっていたのは
日隆社(高皇産霊神):ホツマによるとアマテル様前以前の、
神代七代の補佐役をつとめる(親戚筋)・イサナミ様の父が五代目タカミムスビ。

国津神社(国神千五百万神)・天神社(天津八百万神)
国津神と天津神という2つの種類の神様がいて、
より古くから日本に住んでいる国津神の方が狩猟を主にしていて、
稲作民に追われた(柳田国男説)

国津の方が倍の数の神がいるということが、歴史の深さを表しているのでしょうね。
国津神は貧富の差が生まれ、むなしい争いのもととなるため稲作を拒んでいた
ともいいますね。縄文人のサステナブルな叡智だなあ。

また、合併された摂社の諏訪神社もとても立派です。
長野の諏訪大社の方角に向かって、社殿が建てられています。




そのご神木に寄り添う社に風神社級長津彦命(シナツヒコノミコト)をまつっています。
ホツマではウツヒコと同一人物とみられ、神武東征の際速吸門で合流し、
水先案内をした筑紫の国守とのこと。
信濃の国名の由来がシナツヒコからという説があり、
そこから諏訪神社の境内社になっているのでしょうか。

富士吉田から、本栖湖に向かいます。

富士本栖湖リゾート


実は芝桜まつり会場内のピーターラビットガーデン目当てで、
今回の旅行が計画されました。
富士エリアにはもちろん行く機会を作りたいと思っておりましたが。




しかし5月下旬になると芝桜の時期はほとんど終わりかけですね。
そしてガーデンは…まだ全く完成してない状態でした。
植えてあるのもが育つのに3年くらいかかりそう。
これで客寄せするには圧倒的に足りない感じでしたね。

カフェは完成しているので、そちらを目当てに行けばいいのかもしれませんが、
メインの花祭りがいい時期でないともったいないスポットかなと思いました。
ちなみに会場から本栖湖は直接見えません。

翌日、本栖湖からスタート。







国道を下り富士宮に出ます。途中の朝霧高原はキャンプ場のメッカのようですね。とても賑わっています。ここから身延あたりが、ゆるキャンという作品の聖地にされてるわけですね。



富士山本宮浅間神社


奥宮を富士山本体とする、浅間神社の代表となる神社、駿河国一宮です。
元は山麓の方にあったものの、噴火の影響もあり、
鎮めるため湧水の地に建てられたとのこと。
結構町の中にあります。一の鳥居の参道の脇が駐車場化されているのが、
町中感があります。



天皇陛下と皇后の今年の和歌が門前に飾ってあります。
現在の皇族との結びつきが強いようです。
本殿は変わったつくりとのこと。配置は大宮氷川神社を思い出しました。
しかしなんといってもこの神社の魅力は、北側裏手にある末社・水屋神社の湧玉池ですね。
お賽銭200円でペットボトル1本汲めるそうです。200円のご神水といえば、
下鴨神社を思い出しますね。商売っ気があります。





それはともかく池の周りに藤棚が作られ、
花の時期には素晴らしい光景が見られるでしょうね^^厳島神社があります。
池からは水路というより一人前の川レベルで、勢いよく水が流れ出ています。
毎秒平均2,1リットルで年間通して安定した水量とのこと。
これは聖地になると思われます。



ホツマに書かれている、ニニキネ様がBC900年ごろに整備した
富士八湖の一つ・シビレウミが、富士宮の池という説があります。
東:山中湖 東北:明(日)見湖 北:河口湖 
北西:本栖湖 西:ニシノウミ(田貫湖?)
西南:キヨミ(興津付近?)因みに清見オレンジの語源ですね°˖☆◝(⁰▿⁰)◜☆˖° 
南:シビレウミ(富士宮市山宮付近)東南:スド(沼津の須津湖か浮島沼)
ということであれば、少なくとも縄文時代あたりから湧水の地ということになりますね。
明治初期国家神道に、山宮御神幸の神事が潰されたことも何気に言及。
※鉾を依り代として、山宮から行列して祭神に降りてきてもらう




北口本宮浅間神社では、諏訪神社北口本宮の神輿が一緒に上吉田の御旅所へ移動、
北口本宮は諏訪を抜かしてはいけないというしきたりを持つ
吉田の火祭』が残されているのと対照的ですね。

というか日本三大奇祭なんですね…Σ(・ω・ノ)ノ!諏訪王朝(=スサノオ説あり)
富士王朝(アマテル系)より格上ということを示しているのでしょうか。

諏訪が縄文中期に黒曜石輸出で栄えて日本、ひいては東アジアの中心となり、
高天原と呼ばれたことに通じますね。富士山の古い名はハラミ山と言いますが、
高天原を見渡せることが語源とも言われます。


富士宮の浅間神社に話を戻しまして、こちらは商業化が濃いめ、
且つ国家神道と懇意の神社、ということで招魂社もあります。

戦没者の魂に復讐されることを恐れた日本上層部が、
魂を封印しているという趣旨の施設という見方もありますね。
靖国神社がその代表となっていますが。

ここの宮司家の方が国家神道に取り入っていった趣旨の碑もありますね。
勤皇派の駿州赤心隊を率いて西南戦争まで参加、
最後は麹町区長になったって…取り入りすぎじゃない。
まあでも湧水は素晴らしいので、清濁合わせた神社といえるかも。


北口本宮が京都の上賀茂神社、富士宮本宮が下鴨神社を彷彿とさせました
個人的には北口本宮のほうが好き
ですね。

富士宮から身延のほうに向かいます。今度は富士川沿いを上がっていくことになります。

富士川は二大構造線の一つ、糸静線上に流れているだけあって、
雄大な谷の景色が続きます。

道の駅なんぶ





お茶やクリなどが名物、2018年オープンの道の駅です。
中世この地を収めたのが南部氏で、祖の光行像があります。
清和源氏→甲斐源氏の流れの加賀美氏という家柄の分家だそうです。
武田氏の親戚になりますね。
甲斐源氏は馬の飼育を得意として重用されていったようです。
甲斐源氏から分家した加賀美遠光(武田始祖の信義は兄弟)の勢力拡大に伴い、
三男の光行が南部氏となったとのこと。(その地名が南部だったのが苗字の由来)
富士川の河岸段丘は、新鮮な水の供給と足腰の強い馬を育てるのに適していたそうです。
そして南部光行が源頼朝に東北地方の馬牧の管理を任され、
東北・盛岡藩の南部氏の繁栄につながっていきます。
甲斐の馬を奥州の馬と交配させ、南部馬につながります。
結構詳しく書いてある南部氏資料室がありました。
博物資料がほぼないのがちょっと残念ではありますが、
それは県立博物館にあるんでしょうかね。

身延山久遠寺

日蓮宗の総本山です。南部氏が身延山に日蓮を招致したとのこと。
麓にお店がそこそこある寺町があります。

100人超と思われる白衣を着た信徒さんが、
行列をなして境内から石段を下りてきました。
熱心ですね。

境内にエレベーターで昇れます。天候が悪かったので利用しました。




境内は立派なお堂が連なります。渡り廊下を伝ってどんどん東側のお堂に行けます。
そこそこオープンな空間になっていて、一番東のほうになるとさすがに
関係者のみのエリアになりますが。

日蓮上人の絵図が並ぶ廊下の途中に、日蓮の遺骨を納めてある表示がしてあり、
行きかうお坊さんたちがあいさつをしていました。
大学も併設されているそうで、山全体が一大宗教の街になっています。

こんな立派なお寺が総本山というのは、死生観に安心感が持てそうですよね。
しかし、東のほうに行く途中でおびただしい数の位牌を見ました。
日蓮宗の信徒さんも、昨年度から亡くなる方が例年より増えているんじゃないでしょうか。
そしてそれは、もちろん枠によるものと思います。
宗教で枠に慎重なのは、ハッピーのところだけみたいですね。
そこもほかの部分で怪しいので支持はできませんが。
論理的・科学的・人道的・歴史的にみると枠には慎重になるはずですが、
それができる団体がほぼいないということは、由々しき事態と思います。
何のために長い歴史を持って、信仰を積み重ねているんでしょう。
宗教界の大部分が形骸化していることの表れでは。
今、その真価が問われているのではないでしょうか。

奥の院にもロープウェーがありますが、かなり悪天候で時間も遅めだったのでパス。

今回はここで帰路となりました。

甲府盆地を見下ろしながら通過していきます。
甲府から諏訪の範囲も、またの機会に行きたいエリアです^^
盆地の終盤で『釈迦堂遺跡博物館』を発見。かなり有名な遺跡ですよね。




同じ地域にある甲府笛吹の浅間神社は甲斐の国の一宮だそうですので、
どちらも大変気になります。またの機会に参拝・訪問したいと思います。
やはり日本の信仰は、縄文から連綿と続いてますね。


今回は富士山の二社の代表的な浅間神社に行くことで、
スタンスの違いを見ることができたかなと思います。
天候がちょっと残念でしたが、気温は暑くなくて快適だったかなと思います。
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プロフィール

HN:
茶人(別HN:さいおん南)
性別:
女性
自己紹介:
2019年までは普通のアニメ映画好き。この4年で一気に裏情報を知った者です。一応歴史を専攻していましたがそれまではそこそこ。日本古代の「偽書」の世界を知って俄然やる気が出てきて、人生史上一番本を読んでます。アジアや世界全体の古代と、日本古代の関係を包括的に見て行きたいと思っています

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