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お茶のこ彩々別館・古代史・神社のお話

日本の古代史(主に縄文~古墳時代。上古代の重要文献『ホツマツタヱ』)勉強中の一般人が、勉強で感じたことや神社を参拝した際の感想などを載せていこうと思います

2022年GW:横浜高田・調布深大寺神社めぐり

2022年GW参拝の第一弾

新横浜のアイスショーを観覧に行った機会に、武蔵国六宮の杉山神社の論社のひとつ、新吉田杉山神社へ行くことに決定。
日吉からニュータウンにつながる横浜市営地下鉄に乗車、数駅で到着します。『東京に生きた縄文』でも採りあげられた多摩ニュータウン・縄文遺跡群の一部。
早渕川を挟んで南の高台に新吉田杉山神社、北の高台に兼務社の高田天満宮が鎮座します。



高田天満宮
この地に正中二年(1325年)西南西の空から現れた光がしばらくの間昼夜輝き続けた現象が起き、聖地とされたとのこと。プラズマ的なものでしょうか。
高田駅を出てから早渕川を背に坂を上がり、一の鳥居から石段を更に90段ほど登ったところにあります。
高台の頂上に鎮座していて、周りの住宅の方が利用している道路が境内の中を横断しているのが面白い配置。交通量はそんなに多くなさそうですが。




社殿の周囲に車止め的なものがないので(前に灯篭はありますが)うっかり車が突っ込まないか勝手に心配に。昔は今ほど人は多くなかったでしょうし、横切るのも牛車等なわけなので通路も今ほど幅を利かせることなく馴染んでいたことと思いますが。

竹を切り出す季節のようで、作業しているおじいさん世代とそれを見ている孫の姿がほほえましいです。幸いなことにノーマスクでいらっしゃいました。
社殿はこじんまりとしています。東に境内社あり。当初の計画は杉山神社の後に高田天神宮に行く予定でしたが、社務所の営業時間が16時までのところもあるかもなので、時間的に先に高田天神宮に行き、杉山神社の御朱印も先にいただくことにいたしました。なかなか達筆な御朱印です^^
蓋を開けてみると杉山神社に向かうコースが意外と距離があったので、この行程にして正解だったと思います。





神社の石段から見下ろす景色はなかなかのもの。周囲の様子がよく見渡せるポイントだったのだと思います。右の山が杉山神社の鎮座する高台になると思います。
16時ごろから杉山神社に向かいます。
高田駅に戻って通り過ぎ、しばらく早渕側沿いを歩きます。地元の親子連れなどが利用しています。化学工場があり、裏手のにおいがかなりきつい地点がありました…
都筑区のマップでは、高台のお寺を併せて巡るコースがおすすめされていましたが、時間的に近めのルートに変更、島忠のあたりで左へ曲がります。

ミネラルウォーター通販会社の倉庫を過ぎると、道が分かれます。車両行き止まりの方の道を選んで、高田天神宮側より緩やかな坂を登っていきます。
畑の中の私有地にお邪魔する感じの、細い道になります。





異世界につながりそうな雰囲気のトンネルに入ると中は竹林になっています。
進んでいくと、やがて社殿らしき建物に後ろから近づきます。地元の方が使う裏のルートから入ってきたようです。一般の人にも開放してくれているのがありがたいですね。



新吉田杉山神社



延喜式内『杉山神社』論社の一つです。そのわけは、武蔵国総社の大國魂神社の宮司を、吉田杉山出身の『猿渡氏』が務めた由緒からだそうです。
また、付近に千年以上住むと言われる森家が地元では『杉山様』と呼ばれており、そのお宅の背後の丘陵に、浅間塚という円墳があるとのこと。

創建は定かでないほど古いそうですね。安房の忌部氏が早渕川流域に移り住み開拓、地域に群在する杉山神社も、その時祭祀されたとのこと。杉山神社はこの地域以外ではあまり見られないそうです。


※旧事本紀によると忌部氏は縄文時代の人物:オモイカネ様(アマテルの姉・ワカ姫の夫)タクハタチチ姫(二代目日嗣の君オシホミミの妻)らときょうだいのフトタマ様を始祖とする一族。神武天皇の時に忌部氏を賜ったといわれます。

他にない名前の神社ということは、かなり古い信仰が残されているといえるのでは。祭神は五十猛命、親のスサノオ様もいらっしゃいます。



社殿は戦後に建て直した感じですね。東に物置、西に境内社があります。


境内の南側にそこそこ長い石段が降りていて、そこが表参道でした。階段上の狛犬の横に、なかなか立派なカヤのご神木があります。




滞在中はほかの参拝者は現れず。5月となると陽が延びてきたため、16時半過ぎでもそれほど暗くなく、境内の涼やかな竹の音を感じることができました。
北側の小さめの参道を下り、里に戻ります。お寺もあり、ゆったりした古くからの家が多そうな地域です。

高速沿いに北上。また早渕川を渡り、高田の一つ先の東山田駅に戻って終了。



横浜の住宅地を歩いたのは実は初めてで、いつも車窓から眺めるだけでした。高台に張り付くように家が建っていて、窮屈そうな町だなと思っていました。

しかしながら古代に注目してみると、川のそばの高台は縄文時代の人が上手く利用して暮らした立地であり、弥生辺りに忌部氏がやってきて開拓、はるかな時を経て現代人も利用するようになったとも言えますね。
縄文の頃と違うのは、何万年も共有していた土地を、自分のものにしてしまうところかな…と思います。

杉山神社はほかに3社論社があるため、またの機会に、2回以上に分けて参拝する予定です。
新横浜はスケート関連で定期的に行くので、その都度いろいろ訪問してみたいですね。




GW参拝の第二弾。神代植物公園の藤棚を見に行く機会に近辺の神社を調べたところ、式内(論)社が3社ありました。コースや神社の規模を鑑みて、そのうちの2社に行くことに決定。
調布駅からスタート、北上して神代植物公園に向かいながら2社に立ち寄ります。



布田天神社



深大寺地域は、全体的に水木しげるとのコラボを展開しているようです。バス通りの脇道が布田天神社の参道になっています。手前に別当の真言宗寺院・大正寺(常行院)あり。



布田天神社は延喜式内社です。社伝では、創建は第十一代垂仁天皇の御代(BC29年後半からAC70年頃)とのこと。文明九年(1477年)に多摩川の洪水をさけ、古天神というところより現在地へ遷座。

「布田」という名前が調布の由来なのかなと思いますが、駅から南下した多摩川との間に、下布田遺跡があるそうです。そしてその遺跡こそが『古天神』の場所です。

東京に生きた縄文』展のポスターにも使用された代表的な展示物、晩期の大変芸術的な耳飾り(重要文化財)がこちらから出土しているそうです!





90度横にしてみるとわかりやすいですが、この形は目か?もしくは第三の目の松果体を模しているのか…なんて。下布田遺跡の資料館があるそうなので、またの機会に行ってみたいです。

ということもあり、この神社の由緒は下布田遺跡と運命を共にしていることが想像でき、縄文時代にさかのぼると思われます。

ちなみに常行院は布田天神社とともに移転してきているとのこと。




神社の佇まい自体はそれなりに商売っ気もありそう。駅にも近く、地域の有名な神社という感じですね。ご神木は昨年枯れてしまい、若木で復活プロジェクトをしているようです。平成15年に放火にあっているそうで…
天神なので立派な牛の像があります。境内社も整備されています。祓戸神社は変わっていますね。


祓戸四神は瀬織津比売神・速開都比売神・気吹戸主神・速佐須良比売神とされ、
瀬織津比売神はおなじみの初代日嗣の君アマテル様の正妻。
速開都比売神はアマテル様の西局の典侍アキコ様
気吹戸主神はアマテル様の弟ツキヨミ様の子、
速佐須良比売神はアマテル様の北局の典侍でスサノオ様と不倫、オロチになったと言われるハヤ子様

神社を出て左側から北上します。普通の住宅街がしばらく続き(どんどん自然や畑が切り売りされてしまったのかもですが)右折すると市場のそばで野川に着きます。




川沿いの自然がオアシスに感じますね。親子連れ、釣り客も見られ、さすがに皆さん、マスクはそれほど装備せず過ごしているようです。


後期旧石器時代から豊富な遺物が出土しているようで、野川の恵みは古代人にも利用されてきたようです。


野川から上がり大通りを曲がると、深大寺参道になります。知ってましたが蕎麦屋が多いです。休日なので1時間以上待ちそうな列がある店もありました。
店によって並び具合が結構違うのが興味深いですね。そんなに評判が違うのか、宣伝がうまいのか。
深大寺は混んでいるので華麗に?スルー(確か何年か前来た時に行ってると思うので)
東側にある湧水の整備された『不動堂』と『不動の滝』を見ます。





その脇に『多聞院坂』という階段が高台に向けてあります。深大寺は天台宗のはずなのに真言宗系の名前なんだなと思いました。
深大寺は創建天平五年(733)ですので、800年代創始の真言宗より前ですね。

真言宗は古代の神道の神髄をフォローしている説もあるので、あとから古代の聖地をさりげなく守護するポジションに入ってきたのかもしれないと想像してみました。



青謂神社



延喜式内論社です。神社の前にあったと伝えられる青波をたたえた池が社名の由来。どんな干ばつでも枯れることがなかったという(二宮神社と同じですね)
縄文時代中期の遺跡もあり、打製石斧が大量に出土、石器の加工場だったようです。


湧水をたたえる古代の信仰・居住の場が深大寺の全域であり、天台宗が平安時代に入ってきて縮小を余儀なくされた経緯がありそうです。こちらも由緒のある神社になると思います。
青謂神社の宮司が深大寺境内にある深沙大王堂の神事を行っていたそうです。周辺は武蔵野文化の発祥の地とも言われています。


階段を上がり、小学校の横を通りすぎるとバス通りに面した所に、樹齢600年余りと言われるご神木のケヤキが現れます。





三本の枝が一本枯れた後が、ハート形の幹の穴になっていますね。女性が熱心にお祈りしていました。何を願っているのかな。ちなみに自分はこの頃は個人的なことは願っていません。
御祭神は水神様で、青渭大神(あおいのおおかみ)・水波能売大神(みずはのめのおおかみ)・青沼押比売命(あおぬまおしひめのみこと)と、なかなかオリジナリティがありますね^^
境内は草取りなど整備をもう少し頑張ってほしいかな、という同行者の評価です。


手水は真新しい龍型のセンサー式。今は蛇口撤去しているところもあるので、これは悪くないですね。


御朱印はインクジェット式の書置き版がありました…インクジェットなところは他にもあるんですが、紙質が明らかにインクジェットというのは初めて。すみませんがせめて紙質を工夫していただけるとありがたい。そして印刷のところほど、お値段の高めの設定なんですよね。







縄文時代からの由緒があると思うのですが、確かにもうちょい頑張っていただると参拝者も喜ぶと思います。
宮司さんは、かもしださんという方のようで、鴨氏・加茂氏と関係ありそうです。こちらも由緒のありそうなお宅だけに…


やはりコースに考古館を組み込めるともっと充実したのかなと思いましたが、植物園に行く目的もあったので今回はこれにて。



最後は神代植物公園へ。藤棚はちょっと終わりかけでした。でも遅咲きの品種はまだ元気でしたね。




ホツマツタエ』によるとは、孝霊天皇がBC200年代、ハラミ山を新しく『富士山』と名付けるときに参考にしたとのことで、見てみたかったんですよね(小規模な藤の花は近所で見られたりはしますが)
その蔓の強さなどから『この先も人々の記憶の根幹に藤の蔓のように絡みつき、末永く国家の象徴であり続けることを願った』そうです。

藤を見るなら関東だと足利がおすすめだそうで、また古代情報と合わせて訪問できるといいなと思いつつ。
昨年の秋くらいから神社と古代史を結び付けた散歩を開始して、今回初めてのGWとなりました。2コース行くことができて、その地域への理解が深まったかなと思います^^
今後も続けていきたいです。
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プロフィール

HN:
茶人(別HN:さいおん南)
性別:
女性
自己紹介:
2019年までは普通のアニメ映画好き。この4年で一気に裏情報を知った者です。一応歴史を専攻していましたがそれまではそこそこ。日本古代の「偽書」の世界を知って俄然やる気が出てきて、人生史上一番本を読んでます。アジアや世界全体の古代と、日本古代の関係を包括的に見て行きたいと思っています

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