古墳時代の北区
安定の聴きやすい講座でした^^しかし空調が壊れており、かなり暑かったです。
飛鳥山博物館の現在の学芸員さんは、縄文時代が専門の方がいないらしく
今回の各時代別講座では古墳時代の取り合いになったそうでした。
個人的には5月の縄文時代が一番聴きたかったですけどね。
1,古墳時代の概要
時代名の由来の「古墳」は、多大なる時間と労力を使った大型のお墓
日本最大の大仙古墳の場合、1日2000人で工事しても15年8か月かかり、総工費は800億円相当。
時期は3C中ごろ~7C代
前期(3C中ごろ~4C末)中期(5C)後期(6C)終末期(7C・飛鳥時代と重複)
古墳は全国16万基もあり、1年で400基造られている計算
「日本全国がお墓づくりに熱狂していた時代」と言える。
古墳の始まりは前方後円墳だと箸墓古墳
弥生時代の周溝墓が変化して前方後円墳になったとされる。
古墳出現の背景は首長制モデルが変化したことによる。
弥生時代はムラをまとめたクニが連立していたが
古墳時代はクニの間にも力関係が大きく出てくる。
※古墳にまつわる様式(施設・形・立地・副葬品など)は
北部九州・出雲・吉備瀬戸内がベースのものが多い
首長のお墓であり、モニュメントである(権力の象徴、首長間の関係性の誇示)
2,古墳時代の北区
(1)古墳時代前期
弥生時代からの継続集落・台地上
①赤羽台遺跡
②道合遺跡
4C後半に縮小化。寒冷化によるものと考えられている
その後低地:自然堤防などの微高地上に移動
堤防と台地の間に広い後背湿地ができ、水田に最適なため。
低地向け灌漑技術もこの時期に入ってきたと思われる
豊島馬場遺跡
140件の溝穴のうち、方形周溝墓跡は少なく平地式住居跡(竪穴住居より低地仕様)が大部分
(2)古墳時代中期
宮堀北遺跡で水辺の祭祀跡
赤羽台遺跡・甑に類似の土器
稲付公園遺跡・はそうを模倣:西日本の文化伝来の証明
(3)古墳時代後期
集落及び古墳群・横穴墓群が確認される
赤羽台・十条台・飛鳥山・田端西台 各古墳群
方形区画溝:豪族居館跡と思われる。
円形の一般人居住区角の中に方形区画溝がある→円形の外に方形が移動
→円形はなく方形だけになる
という推移をたどる。代表者が一般人から分離する過程になっている。
赤羽台の古墳(6C後半~7C前半)
台地の北端部に集中(1号墳は中世の塚とみられる)・住居は東端部に集中
石室構造
6C後半(3,4号墳)房州磯石(切り出していないので角が丸い)・石室の幅せまい
7C前半(5,6,7号墳)凝灰質砂岩(切り出して角がきれい)・石室は奥が広い
古墳出土物の産地から地域交流の広さががわかる
房州磯石:房総半島→最大北武蔵まで120km移動
埴輪(埼玉生出塚埴輪窯産):北武蔵→最大房総半島まで80km移動
※北区出土の埴輪は小さめ(遠くに運ぶものは小さめだから)
赤羽は北・南武蔵の境目で両地域をつなぐ拠点だった。
645年:蘇我氏が滅ぼされる乙巳の変
646年:改新の詔・国郡里制で大和政権が一気に中央集権化・武蔵国豊島郡になる
当時の東国古墳社会の変化が反映。
3,4号墳は首長同士の緩やかな同盟関係
5号墳以降は中央集権体制に組み込まれ始めた頃となる
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弥生と古墳時代の違いは首長制モデルが変化したとのことですが、
その次の中央集権化での変化に比べるとかなり緩やかで、
やはり古墳時代までは縄文から弥生までの
古来の日本的世界・宗教観でまとまっていたんだなと思いました。
資料の最後に600年代の年表を掲載してくださっていましたが
600年ごろに前方後円墳の築造中止になっているんですね。
乙巳の変が注目されがちなんですけど
500年代に物部氏が蘇我+聖徳太子に倒される「丁未の乱」がありまして
以降既に古神道の封印と仏教の推進が始まってるんですよね。
前方後円墳の築造中止はその表れだと思います。
仏教に肯定的な推古天皇という女帝即位のために
元々男性神だった天照を女性にすり替える改悪が始まっていたと言われます。
※神功皇后は天皇ではなくあくまで皇后だったのがポイントですが、
一方で男勝りの活躍をさせたのは推古天皇即位のためのアレンジだったとも。
500年代も要注目だなと思います。
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【昭女大・近文研】シンポジウム「ヤマトタケル敗者の形象」
こちらはオンライン・ヤマトタケルについての3件の発表と討論会の構成でした。
敗者ながら、大きく取り上げられていることが論点。
(1)昭和女子烏谷先生:古事記・ヤマトタケルの「大御葬歌」が
明治以降の天皇の葬儀に使われる。
日本書紀には未掲載で、その代わりヤマトタケルの死に際する天皇の哀悼が書かれる。
ヤマトタケル終焉の地・能褒野での歌「倭は 国の真秀ば たたなづく」あり
→まほろば(理想的な国)
ヤマトタケルへの畏怖の表現
「宋書 倭国伝」に東はエミシを征すること55国、西は衆夷を征すること66国とあり、
ヤマトタケルの西征東征をほうふつとさせる。
「続日本紀」文武天皇702年の年に、ヤマトタケルの墓に落雷と記述。
(2)フェリス松田先生:ヤマトタケルが「言向」やわぐ と記述されるのは古事記
言向けを成し遂げる人物は「建」の名を持っている
神武天皇はカンヤマトイワレビコで持っていないが、タケミカヅチの剣に導かれるエピから「建」があるとみなしてよい
さやぐ(葉擦れの音)=荒ぶる神を鎮めるために言向をする。
古事記ではヤマトタケルの凶暴性を憂慮し、
景行天皇は西征東征に追いやったという悲劇的な演出。
ヤマト姫から授かった草薙剣を失うと、
神のメッセージを受け取ることができず死につながった
ヤマトタケの子孫の仲哀天皇も、新羅征討の信託を受け取らず
死につながったということになっている。
(3)三浦先生:ヤマトタケルの国定教科書での扱い
戦前の教科書は日本書紀の記述がメイン:理想的なヒーロー像、悲劇性は強調されない
戦前のおとぎ話や戦後は古事記メイン:父王に追いやられる悲劇的なヒーロー像、
凶暴さは古事記より抑えめ
日本書紀はクマソの首長は1人に対し古事記は2人、
また記は出雲で親友をだまし殺すという残酷エピもあり
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(討論会)
烏谷先生:古事記は敗者の物語を重視して書かれている
松田先生:天皇の魂も祀らないと荒ぶるものとされる、
ましてや天皇に反したことになっているヤマトタケルの魂は
丁重に鎮める必要ありなので「大御葬歌」をつくったのかも
三浦先生:明治以前は「大御葬歌」がそこまで重視されていなかったことも考慮すべき
紀は「史・伝」とセットで造られる予定だったが頓挫。
序文も再検討する必要があると思っている
常陸国風土記ではヤマトタケルは天皇として認められていたと記述され、
その方向の研究もあり
→ヤマトタケルは7-8Cに急激に悲劇化されている
「ホツマツタヱ」を参考にすると研究者の皆さんの謎も
結構解けるんじゃないかなあと思いつつ。
三浦先生の目の付け所は良いだけに。「火の鳥」ヤマト編・手塚先生の
「敗者などの多角的な視点から見ないと真実には近づけない」
という趣旨の言葉も引用されていました。
・「ヤマトタケルは天皇として認められていた」これはホツマの記述とも一致しますね^^
・神武天皇の名に「建」が入っていない件について、
神武天皇の諱は「タケヒト」で「建」が入っています。
・また、東征の時ヤマト姫に渡された神具は剣と、
火打石かな?と曖昧におっしゃっていましたが
「火水土の祓いの秘伝書」という記紀より詳しい記述があります。
偽書と一蹴せず、内容を検証し、参考にしていくことが
日本古代史の更なる発展につながると思います。