伊勢斎宮と古代都市
都市的構造の成立と変遷にみる歴史的意義
特に興味がある旧石器〜古墳時代までの範囲外ではありますが、
直後の飛鳥〜平安時代の内容ですので、オンラインにて受講してみました。
(千葉はちょっと遠いため)
その遺跡で専門的に調査している方々だけあって、
内容もピンポイントに掘り下げてある感じでしたね。
伊勢斎宮のなりたちは飛鳥時代、大来皇女が初代。適任者は天皇の未婚の娘、
いなければ近い人が選出。以降平安時代の間、660年間継続。
最近斎宮跡はPR活動に力を入れており、復元建物がある。
休憩時間に女性向けっぽいイメージPVが流れていた。
斎宮の宮は伊勢神宮の隣の明和市にある。
斎宮代替わりごとに建て替えられていた可能性あり。
飛鳥時代は北東を上にして、河岸段丘のすぐ上にあったが
平安時代には崖寄りではなくなる。また上の方向もほぼ北向きに変わる。
区画割は小規模な碁盤の目状となる。
墨書き土器に、町のどこで使われていたかが書いてあることが多い。
遺跡の中の区画特定の目安にもなる。
称徳天皇の道鏡事件のころは仏教建築・神宮寺が斎宮の中にも建てられていたよう。
770年代以降は反動により仏教要素は排除されていく。
時期を同じくする、市川の下総国府跡の都市構造も見ていく。
江戸川と利根川両方を利用できる交通の要衝。
郡衙と国衙が南北に隣接している。いかに共存していたかは今後の研究課題。
郡衙のすぐ南に古墳も含む墓地が隣接。この意味合いも要研究。
国府の境目で呪術を行った形跡が出土。こちらも墨書土器が参考となる。
碁盤の目の区画は国府にはないが、右京と書いてある土器もあり、
右京・左京の区別をしていたと思われる。
市川の発掘作業は最近活発化している。
直近では野球場整備予定を延期して発掘予定。
斎宮の都市は特殊なので(斎宮が不在のときは町に人がいなくなることも)
講演者の先生方も、国府とは比較しづらいところがあるようでした。
とはいえ知らない部分の話でしたので(本当にいくらでもあると思いますが)
また認識範囲を増やせてよかったかと思います。
日本大転換期、672年の壬申の乱の後から斎宮制度が始まるんですね。
即位した天武天皇の娘の大来皇女が初代斎宮とされる。
しかし天武天皇死後、
大来皇女の弟:大津皇子と、その腹違いの兄弟:草壁皇子の皇位争いで
藤原不比等と組んだ持統天皇が草壁皇子を勝たせ、
大津皇子は死刑、大津皇子の派に属する大来皇女は、斎宮を退下したとのこと。
大津皇子の死に際する大来皇女の歌は
「奈良の二上山(イザナギ様・イサナミ様)を
亡き弟・大津皇子(アマテル様の生まれ変わりと思われていた)
の清浄な治世の姿と仰ぎ見て、
私は地上に生きてこの世の闇を見ていく」
という解釈もできるようです。『検証ホツマツタヱ』より
大津皇子がアマテル様なら、その姉大来皇女は
ホツマで大活躍するヒロインの一人:ワカ姫様ですね^^
斎宮は持統天皇の時期は任命されず、
次の文武朝では短期間に複数人が担当したとのこと。
混乱していたことがうかがえますね。
神代文字文献の焚書は、藤原不比等の企みが大きいと言われていますね。
天武天皇が持統天皇+不比等によって暗殺された可能性すらあるかも、と思いつつ。
こちらも丁未の乱に続く、日本史の大きな闇だなと思います。
また、市川が国府として設定された概要も知ることができて有意義でした。
千葉は縄文遺跡や古墳が多いですから、連綿と続く豪族との関係があるのかも。
そしてこの先は、関東の武士へと続くわけですね。
下野谷遺跡のなぞ~発見する楽しさを伝えるために
昨年5月に行った調布・布田天神社のルーツの可能性がある
縄文時代晩期・東京の代表的遺跡についての講座になります。
近隣の市になる東村山ふるさと歴史館での開催。
手前に諏訪神社があります。

関係ないですが、まだ和式トイレの割合が多い施設があるんだなあと思いました。
常設展示の考古学コーナーも、丁寧な説明付き展示です。
また、縄文の漆利用に関する特設コーナーがあったのがいいですね。

八国山遺跡では漆使用の資料価値の高い遺物が出土したとのことです。
集積回路っぽい施文の注口土器もありました^^

このタイプの注口土器は茨城の作品がまた完成度が高いんですけど、
参考にして作られたのかな。
茨城…二神様やニニキネ様初期の治世と関係ありそう。
80名の定員ですので設置の机に収まりきらなくなって、机なしで受講される方も。
下布田遺跡は晩期の安行3c・d式にあたる200年ほどにわたる期間のみなので、
それほど長くはない。
西の低位面と東の高位面で構成。低位面に石棒集積遺構と、方形配石遺構がある。
高位面に合口土器棺墓があり、横位の状態は弥生の方式に近い。
方形配石遺構の南側に遺物の大量集積地がある。
多摩川低地部の調査では、籃胎漆器(竹籠の漆器)や栗の加工木が出土。
西関東に分布する飛行機型の石鏃の発信地だったと分析できる。
居住の形跡が明確に見られないのが珍しい。祭祀がメインの遺跡の可能性あり。
昭和期の初期発掘の様子を写真付きで解説。70年代の写真は当然ながらモノクロ。
段階的に国指定史跡に登録され、今は全域が登録されている。
登録されるているがゆえに、発掘遺物をあまり動かすことができない制限がある。
発掘の規模は予算との相談でもある。
こういう現場のリアルな話も交えてくれるのも興味深かったです。
土器の型式から西日本(突帯文系土器)や東北(大洞式)との交流も見られる。
「東京に生きた縄文」展でも目をひいた千網型耳栓が代表的出土物。
出土した時はバラに例えられるほど鮮やかな赤い色をしていたそう。
こちらは群馬が生産拠点で、同じ型のものが関東の複数の場所から出ている。
千網型耳栓が群馬発の作品ということを知ったのは収穫でした。
群馬といえば、榛名山麓が本拠地ともいわれる
縄文晩期・アマテル様の時代の首長:ハルナハハミチですね^^
『ホツマツタヱ』ではハルナハハミチはハタレの乱の第五番目の反乱軍で、
津軽で蜂起して京都まで来たとのこと。
群馬を治めていたフツヌシ様が香取神宮に移動したため、勢力を拡大したとも。
アマテル様の時代はBC400-300年代くらいの弥生時代(縄文晩期からの移行期ともいえるか)
という分析もあるようですので、千網型耳栓はその時期よりは少し前かもですが
(千網型は中でも最終末:BC300年代にかかるみたいですので、被ってる可能性も?)
関東のムラに、群馬地域から同盟関係の品として配布された可能性がありますね。
明治大学博物館
日本考古学のパイオニア・リーダーである明治大学の博物館に行きました。
日本各地から厳選された考古学の品がそろっておりました^^
これが観覧無料とはありがたい。
地域に特化した郷土博物館とは、持ち味が違いますね。
大学内の博物館ですのでそれほど人が集中するわけではないので、じっくり見れます。
写真OKなので張り切って撮らせていただきましたが、
ほかの観覧者の方は結構お静かでした。
刑事部門の展示に関しては前知識を入れてなかったので、ちょっとビックリでした。
主に戦時中に研究が行われたとのこと。
このパートをじっくり見ている方もいるので、人それぞれですね。
明大が調査した遺跡の紹介とともに展示してあるのがさすがです。
旧石器時代の石器がこれだけの数そろっているのは初めて見ました。

相沢忠洋さんの発見した旧石器時代の手がかりをもとに、
岩宿遺跡を初めて発掘調査したのがほかでもない明大なんですよね。

ブラタモリで観た諏訪の黒曜石も明大が調査しているんですね。

縄文晩期の土器類は本当に洗練されており、
現代の職人の作品といっても遜色ないです。
弥生土器の幾何学的な文様の美しさもよくわかる作品が展示されていました。
絶妙な色合いがステキですね。

縄文時代とのつながりを想起させる
顔面付き壺型土器も目を引きます。

日本で作られた蝦夷地域との交易品で、実用というより装飾用ともいわれる蕨手刀も。
香取神宮ではレプリカになっていた銅鏡もこちらでは堂々本物が!鎧も重厚感あり。

大型の古墳に飾られたと思われる1メートル台の大きさの埴輪(レプリカ)も圧巻。
平安時代に今の日本刀ができるまでの刀の形の変遷も展示されていて、こちらも
勉強になりました。
飛鳥時代以降の遺物はあまり展示されていないのが、スタンスがはっきりしていますね。
日本の木工や織物等各種工芸品の歴史を紹介するコーナーがあり、
漆器と陶器の部分がとくに参考になりました。